人は多分「がん」で死ぬのではない 〜ある独居老人のがん発見からの4ヵ月[概略]〜

平成30年9月25日。
明治通り千駄ヶ谷交差点を渡ろうと、信号待ちをしていました。
小雨が降って、薄暗い午後2時すぎでした。
痩せすぎた身体に黒のワンピースを着た、おばさま(私はそう呼んでいます)に、私は紺色の傘を差し掛けていました。
代々木駅の方へ渡り、間もなく到着した診療所の階段を上がるのも苦労するほど、おばさまは弱り切っていました。
掛かりつけの診療所の看護師は、おばさまの姿を見るなり血相を変えて、診察室に連れて入りました。そして、小一時間のうちに、受け入れてくれる近くの病院を手配してくれました。

独り身老人が入院する際の、保証人問題

もし87歳の身寄りがないおばさまひとりだったら、病院は受け入れてくれなかったそうです。私が一緒だったことは、彼女に取って幸運だったそうです。

受付期限の16時ギリギリに病院にたどり着いて、レントゲンとCTを撮った後、おばさまと二人で、若い医師から喉に写った大きな腫瘍について説明を受けました。

普段から私が検診に付き合っていれば早くに対処できたかも知れない

春先から体調不良を感じていたおばさまが、掛かりつけの医師のアドバイスを聞き入れて、血液検査やレントゲン撮影を受け入れていれば、もう少し体力があるうちに治療を受けることができたかも知れません。後悔が残ります。
入院の段階で、35kg以下に体重は減っていたと思います。普段は、推測ですが、45kgはあったと思います。

任意成年後見人契約と遺言書を作成していた

おばさまは、好意にしている方と、任意成年後見人契約をしていました。駆けつけたその方と、初めて対面しました。ここから彼と二人三脚のサポートが始まりました。
彼女が元気な頃に私も相談を受けて、おばさまと彼との契約書を確認してありました。それが迅速な入院手続きやその後のスムーズな転院などに繋がっていきます。

私は、おばさまの家の鍵を預かると、着替えや郵便物、日経新聞などを日々届けました。正直、年寄りのひとり暮らしの部屋の家捜しをするのは、苦手です。でも、随分つましい生活をされていました。
永年ひとり暮らしだったおばさまは、病院に見舞う私に対して、わがままな時もありましたが、気丈にしていて、いつも私が来るのを楽しみにしていました。

5cmもの大きさの食道癌という診断結果と治療法の説明は、おばさまと成年後見人、私の3人で聞きました。
ほとんど飲み込めない現状の解決策として、おばさまには2つの方法が提示されました。
ひとつは、喉を強制的に広げて、飲み込みができるようにする方法。ただこの方法の効力は3ヵ月程度とのこと。もうひとつは放射線治療でした。
高齢のためでしょう、切除や抗がん剤治療は提案されませんでした。
喉に異物を入れてまで、食事ができるようになるより、がん細胞の消滅に期待を持って選択しました。

医学療法士などによるサポートがなければ、病人は入院した日数に比例して弱る

放射線治療は11月の上旬まで続きます。
1日をほとんどベッドの上で過ごす生活は、87歳の彼女の筋力を奪いました。
もし、私が一緒に運動をしてあげられれば、彼女の体力の低下のスピードを緩められたのかも知れません。行く度にスクワットをするように伝えたり、運動をメモするためのノートを渡すだけでなく、もっと実際に一緒にやることもできたと思います。ただ、私には、高齢であるということに対しての躊躇がありました。

なぜ、毎日見舞うのか? かつてのボスとの約束

おばさまは、思ったより重篤な病状や、もう家には帰れないかも知れないという絶望感など、さまざまな不安を持ちながら、普段通り、私の愚痴を聞き、私の家族や、父母、義理の父母などの健康を気遣ってくれました。
ただ、私がユニクロで購入したカーディガンやフード付きのガウンは、おばさまの好みではないと、随分小言を言われました。

昭和6年4月1日生まれのおばさまと出会ったのは、かつての上司が行きつけにしていた、銀座の止まり木の店主とお客という立場ででした。
そのボスとおばさまは、お互いが20代そこそこの時に銀座で知り合い、当時すでに40年近い付き合いでした。その「よし山」という店は、そんな先輩方が帰りがけに立ち寄る店でした。

私が会社を退社した後も、機会があれば立ち寄って、いろいろと話を聞いてもらうことが続き、いよいよお店を閉めた後は、ボス夫妻と4人で飲みに行ったり、ふたりで食事をしたり、家族と食事をすることもありました。

19歳の時、銀座のキャバレーで煙草売りから始めたというおばさまは、ホステスになり、自分の店を持ち、50年余り銀座のお客さんを見てきたのだと思います。
東京大空襲の日、住んでいた幡ヶ谷からは東の空が夕焼けや花火のように見えたそうです。その翌日には、たくさんの被害者の遺体を目撃してしまいました。そんな小学生のころの想い出を、訥々と語るおばさまは、昭和と平成を女ひとりで生き抜いてきました。

なぜ、私は毎日病院へ通うのだろうと自問自答しながら、それでも彼女のためを思い、気がつけば、11月の末になっていました。
幸い、放射線治療は滞りなく終了し、水も満足に通らなかった喉は、腫瘍が小さくなり、飲み込む時の違和感が少なく感じるようになったそうです。

治療終了と同時にホスピスへ転院。がん完全除去とはならず、緩和ケア病棟へ

11月27日、予てより審査を受けていたホスピスから突然の受入可能の知らせ。翌11月28日には、成年後見人の方の手配で、無事、転院したのです。

9月25日から11月27日の間、休みは3日だけ。11月28日の転院に所用で付き合えなかったことで、私の使命感の糸が切れました。
乗り換えなどを含めると、今までの倍以上の時間を必要とする転院先に、今までのように毎日は通えない。緩和ケアという行き届いた環境に慣れて過ごせるのではないか。意識的にお見舞いの頻度を少なくしました。

12月に2度、年明け1月に2度。
誇らしげにシャーベットを食べてみせる気持ちに反し、ベッドから自力で立ち上がるのは、難しい身体になっていました。
前の病院にいる2ヵ月間にもっと、体力を維持する手助けができたのではないか。いろいろな気持ちが頭を駆け巡りました。

そして本日2月1日。昨日、成年後見人の方からの連絡受けて見舞ったおばさまは、大きく口を開けて、ただただ深く呼吸を繰り返すだけです。
ボスが見舞いから帰って、私ひとりになって、おばさまが大好きな、渡辺貞夫、山下達郎、エリック・クラプトン、一緒にコンサートに行った中島みゆきをYouTubeで聞かせながら、でも、この2時間の間、1度しか動かないおばさまを見ながら、背中にめいっぱい太陽の光を浴びています。

私の子どもに、病気の姿を見せたくない。
そう気丈に振る舞ったおばさま。成年後見人の方によれば、最後まで、病状を知らせたい人、知らせたくない人。こだわられたそうです。
平成7年に献体を申し込まれた、その受領証と添え書きを見せられたときは、目が潤みました。

おばさま、また来るから、元気で。
ひとりで勝手に旅立っちゃだめだよ。
1度帰るけど、また来るから。それまで待っててね。

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